研究概要

「汝自身を知れ」との箴言に自然科学的方法によって答えることは、どのようにして可能でしょうか? 

    過去の経験を振り返り不確定な未来に思いをはせるヒトの能力の起源をたどることはできるでしょうか?
私達は、記憶と思考の大脳メカニズムの神経科学的研究をつうじてこうした問いに答えたいと思います[こうした問題の現状に興味のある方は、このホームページの「イメージを創る力」をお読みください]。

脳の高次機能のなかでも、記憶は思考・自己意識などの基礎をなす重要なサブシステムであり、個人の意識体験の連続性ひいては人格そのものも記憶により支えられています。21世紀に向けて人類社会が直面する大きな脅威である老年痴呆やアルツハイマー型痴呆の初期症状が、多くの場合、記憶障害として発現するのは示唆的です。

 記憶システムの神経科学的研究は、高次認知機能の中でも格段に急速な進歩を遂げつつあります。脳における長期記憶情報が、神経細胞(ニューロン)同士の情報伝達部位であるシナプスの伝達効率変化に物質的基礎をおくことは既に確立されています。物質的観点から、このシナプス可塑性を分子的言語(例えば、CREBの燐酸化とそれによる転写制御、MAPKカスケードなどのセカンドメッセンジャー活性)で解明する努力も格段に進展しました。しかし、機能的・情報的観点からは、記憶情報を多数のシナプス上にどのように表現し、検索・想起するかのメカニズム解明が重要であり、さらにヒト高次機能の観点からは、想起(recall)可能な多数の長期記憶情報の中から状況文脈に依存して最適の項目を選択し、有限容量の意識可能な作業記憶に取り込んでくるメカニズムの解明が必須です。このようなシステム的過程の探求は単一シナプスの分子過程探求に還元できませんが、分子生物学的手法の進歩によって開発された種々のプローブを武器に、遺伝子発現から高次文脈依存想起メカニズムに至る異なる機能階層レベルを貫いた統合的研究が可能になりつつある、と私達は考えています。

 これまで、サルを用いて単一神経細胞の活動や神経回路の形態的解析を行う方法は大きな成果を挙げ、私達は視覚短期記憶並びに長期記憶をコードするニューロンを大脳側頭葉連合野に世界に先駆けて発見してきました。他方、ヒト脳活動の非侵襲計測ことに機能的磁気共鳴画像法( functional Magnetic Resonance Imaging,fMRI)の最近の進歩は、サルにおける知見をヒトに拡張しヒト固有の機能を理解するための有力な手段を提供しています。私達は、大脳側頭葉における記憶ニューロン解析と事象関連型fMRI 法によるヒト前頭葉認知機能解析を基礎として、多くの機能階層レベルを貫いた統合的研究により、大脳認知記憶における前頭葉と側頭葉、並びに海馬を中心とする辺縁系の相互作用メカニズムを解明したいと努力しています。このシステムのモデルを下に示します。



大脳記憶システムは、前頭連合野、側頭連合野、海馬を含む内側側頭葉の大脳辺縁系、から構成されており、(1)長期記憶の形成には後二者の相互作用が、また(2)記憶情報の検索・想起にはこれら三者の相互作用が重要である、との仮説を私達は提起してきました。連想記憶課題を学習させたサルを被験者として、電気生理学的方法によって単一ニューロン活動を記録し、また遺伝子発現産物を分子生物学的方法によって定量し、この仮説を検証する事ができます。図形パターンの連想記憶が連合野ニューロンにどんな内部表現としてコードされるか、記憶生成過程において神経栄養因子なかでもBDNFが重要な役割を果たすこと、図形想起の信号がどのようにしてこの内部表現を活性化するか、想起信号はどのような脳内神経回路に由来するか、等の知見をこれまでに得てきました。主な成果を要約すると、

1.霊長類の側頭葉連合野に視覚図形の短期記憶と長期記憶を貯えるニューロンを発見し、初めて「記憶はどこに貯蔵されるのか」との問いに答えを与えました (Miyashita & Chang, Nature 331, 68-70, 1988;  Miyashita, Nature 335, 817-820, 1988;  Sakai & Miyashita, Nature 354, 152-155, 1991)。

2.「記憶はどのようにして形成されるのか」との問いに対し、この記憶貯蔵ニューロンは、一次視覚野からのボトムアップ情報だけでなく、海馬からの逆行性の信号を使って記憶を固定化すること、さらにこの過程で>BDNFによる神経回路再構成が重要であることを見出しました (Miyashita & Higuchi, Proc.Natl.Acad.Sci.USA 93, 739-743, 1996; Miyashita, Annu.Rev.Neurosci. 16, 245-263, 1993; Sakai & Miyashita, Trends Neurosci17, 287-289, 1994; Tokuyama, Okuno et al. Nature neuroscience 3, 1134-1142, 2000)。

3.「記憶を検索・想起する」過程のはじまりは、側頭葉の記憶ニューロン群が、網膜からの物理的信号によってではなく、脳の内部からの信号によって活性化されることであることを示しました (Miyashita, Science 268, 1719-1720, 1995;  Naya, Sakai & Miyashita,Proc. Natl.Acad.Sci.USA 93, 2664-2669, 1996)。

4.この「脳の内部からの信号」は何であり、どのように意識的に制御されているのか。ヒトを被験者とする機能的磁気共鳴画像法(Konishi et al., Nature neuroscience 1, 80-84, 1998)と、サルを被験者とする行動学的方法によって前頭葉の役割の重要性を示し (Hasegawa et al, Science 281, 814-818, 1998)、さらに前頭葉から側頭葉へのトップダウンの記憶検索信号を、直接微小電極上に同定・解析することに成功しました(Tomita et al. Nature 401, 699-703, 1999)。さらに、自発的な記憶想起時には、大脳辺縁系からの信号が側頭葉連合野へ逆向性に到達することを発見しました(Naya, Yoshida & Miyashita, Science 291, 661-664, 2001)。これらの発見は、「記憶はどうやって検索・想起されるのか」との問いに最も直截に答えるものです。

厳密な神経科学の方法論に則り、過去数百年間に蓄積された自然科学体系の中に自分達の研究を――実験手法においても論理的思考方法についても――位置付けるとともに、現在の技術水準で追求可能な、ギリギリの、最も「おもしろい」高次の認知機能を追及していきたいと願っています。